愛知県津島市。 愛知県と岐阜県の境である木曽川の東に位置し、「西の八坂神社、東の津島神社」と呼ばれた 牛頭天王信仰の総本社である津島神社の門前町として繁栄してきたこの街に、 江戸時代の行脚僧「円空(えんくう)」が彫った千体仏が安置されている。 津島市といえば津島神社が有名であるが、千体仏はこの津島神社に向かう途中のお堂に安置されている。 |
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全国津島神社の総本社「津島神社」 | |||
千体仏地蔵堂と呼ばれるこのお堂は、開扉期間の情報が不確かであったがようやく8月24日の地蔵盆に ご開帳されるということが分かった。 地蔵堂は、名鉄津島駅の前を通り津島神社の東の楼門に繋がる天王通りに面しており、 津島駅と津島神社とのほぼ中間地点に位置する。 |
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名鉄津島駅 | |||
津島駅から天王通りを見る | |||
天王通りとは昭和に入ってから整備された街道で、それまではこの辺りは狭い路地だったそうだ。 |
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常楽禅寺 | |||
西方寺 | |||
津島駅から千体地蔵堂に向かうまでも常楽禅寺、西方寺の脇に地蔵堂があり綺麗に飾り付けられた様子をみると この地域の人々が地蔵盆を大切にしていることがよく分かる。 |
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千体仏地蔵堂 | |||
天王通りを津島神社の方へ歩いて行くと白いテントが見えた。 ここが千体地蔵堂である。 このテントさえなければ通り過ぎてしまうほどの、小さなお堂だった。 永代供養と記された灯篭と、小さなお堂がふたつ。 普段はガラス戸をしているようで、この日のために壇を設置するのだとか。 |
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千体仏地蔵堂 | |||
お堂の中には厨子が入っており、その厨子の中に高さ39cmの善財童子と護法神像、14cmの韋駄天像が 一躰ずつ安置され、中央に(といってもその厨子の中の空間の殆ど全てを)地蔵菩薩を中心とした千体仏が安置されている。 |
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千体仏地蔵堂(津島市デジタル博物館より引用) | |||
中心の地蔵菩薩は高さ21cmで、その周りを5cm程の大きさの小仏千躰がまるで岩壁のように作られた 光背にぎっしりと並べ付けられている。 その小仏の圧倒的な量感は、まるで賽の河原へなだれ落ちて行く無数の命のようで恐ろしくもあるのだが、 中心の地蔵菩薩の微笑を見ているとその河原から救いだされたした命のようでもある。 地蔵菩薩の裾には、もともと六地蔵が付けられていたようであるがよく見ると今は8躰で後世に修復されていることが分かる。 というのも、先に書いた通りこの天王通りは昭和に入ってから整備された道で、 それまではこのお堂も路地の一角に建つごく普通のお堂で、近所の方も特に気にしていなかったのだと 世話人の方は言う。 それは私たちがもつ仏像に対するイメージと円空仏の像容とは異なっているからなのだろう。 この像が円空の作であるということすら知らずに昭和30年代までこのお堂に安置されていた。 しかし、安置と言っても今のような文化財としての姿ではなく、荒れた堂内で埃をかぶった悲惨な状態であった。 その後、この像が円空の作であるということが分かり修復に出すのだが、小仏を掃除をし接着剤で止めるという 修理の仕方で今では円空が付けた本来の位置に小仏はない。 |
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千体仏地蔵堂 | |||
それは小仏を一つ一つ見ても分かるのだが、右を向いたり左を向いたりとバラバラで統一感がない。 光背としての小仏であるなら放射状に付けられていたと考えることもできる。 その円空仏が入る厨子の隣には、これまた円空とは別の鉈彫の仏像が数体置かれている。 これは、円空仏を修復に出す際にその下から出てきた仏像らしく、これは開扉時期でなくとも ガラス越しに拝見することができる。 その像を円空仏と勘違いし紹介するHPなどもあるようだが、これは円空とは全く関係がない。 地蔵盆の一日だけということもあり、私がお堂にいたその間も町の人がお供え物や奉納金を持ってきたりと 観光寺院にはない、ゆったりとした時間が流れていた。 その人達はみんな円空仏のような優しい笑顔であった。 |
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津島神社参宮道 | |||
世話方の方にこの町の話を聞き、天王通りの南側が津島神社に続く本来の参宮道であるということを教えてもらい、 津島神社までの街道を歩いた。 円空の千体仏がこのような姿で残っているのは日本でもここだけであるので、 是非一度は拝見していただきたい。 尚、8月23日・24日を地蔵盆として開扉されていた千体仏地蔵堂であるが、 近年は高齢化も進み8月24日だけを地蔵盆のご開帳とされている。 あと一日だけ現在は開扉されるのであるが、それはこの先の天王川公園の藤まつりが 開催される期間の一日で通常はGWの天気の良い、一日のみお堂を開けて円空さんを 拝んでいただくことができるのだという。 GWのご開帳に関しては津島市役所産業振興課に事前に確認すると教えていただけるらしい。 千体仏地蔵堂HP:ナシ 所在地:愛知県津島市天王通り3丁目 名鉄「名古屋」駅から名鉄津島線で約22分「津島」駅下車、徒歩10分 拝観時間:ご開帳時は10:00~16:00 拝観料:志納 その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>
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参拝日:2011/08/24 |
日本一のお寺好きが、日本全国の仏像やお寺、イベントなどの情報を分かりやすくご紹介します。主な掲載地域は奈良、京都、滋賀(湖北)、岐阜、愛知、三重が中心です。古刹、名刹、仏像に関しての拝観情報を紹介。西国三十三箇所巡礼、数珠巡礼も紹介します。
2011年8月25日木曜日
千体仏地蔵堂 1008の木端仏に囲まれた円空仏【愛知】
愛知 千体仏地蔵堂
2011年8月18日木曜日
長岳寺 山の辺の道にのこる古刹【奈良】
奈良 長岳寺
奈良には日本最古の道と言われている「山の辺の道」がある。 その山の辺の道に天長元年(824)に淳和天皇の勅願により弘法大師が日本神社の神宮寺として 創建されたと伝えられる古刹が長岳寺で、奈良市内から車で30分ほどで到着する。 |
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長岳寺 国道169号を東に入ると山の辺の道へ | |||
釜口大師の名で知られるこの寺は、鎌倉時代末より興福寺の末寺となり、その後、応仁の乱で主要な堂宇を失うも寛永7年(1630)に再興され今に至る。 |
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長岳寺 全景 | |||
長岳寺は関西花の寺霊場の第19番札所にもなっており、12,000坪という広大な境内には春は桜、秋には紅葉が時に有名で、観光スポットにもなっている。 12,000坪と聞くと広大であるがそのほとんどが山に囲まれているため駆け足で巡れば20分ほどで境内を散策できる。 |
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長岳寺 根上りの松 | |||
山の辺の道は今ではのどかな奈良の風景を見せてくれる田舎道であるが、 8世紀の初めには官道として出来ており、今で言う国道のような役割を持っていたのだろう。 その道沿いに位置する長岳寺には文化財も多く重要文化財には仏像5躰、建造物4棟が指定されている。 山の辺の道を歩くと大きな松の木が参道を影に隠していた。 |
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長岳寺 | |||
長岳寺 大門 | |||
長岳寺 鐘楼門 | |||
根上りの松と呼ばれる大きな松の木を少し登ると大門があり、 受付の先には平安時代に創建された日本最古の鐘楼門がある。 現在はその上層に鐘は吊っていないが、遺構が残っている。 |
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長岳寺 旧地蔵院 | |||
旧地蔵院庭園 | |||
そこを抜けると本堂となるのだが、この鐘楼門をくぐる手前、 受付の裏手が庫裏を兼ねた旧地蔵院で、ここに普賢延命菩薩を本尊とする 二間四面の小さな旧地蔵院本堂がある。その横に広がる庭園も美しい。 書院造りの上品な風景を遺している。 |
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旧地蔵院 奥が本堂 | |||
こちらの普賢延命菩薩は大和十三佛第四番霊場となっている。 また旧地蔵堂では三輪そうめんをいただくことができる。しかし、閉門1時間前だとすでに終了していたりするので注意。山の辺の道を散策しながらお昼時に長岳寺へ入り、そうめんを頂くという散策コースもいいかもしれない。 |
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長岳寺 本堂と放生池 | |||
鐘楼門をくぐると右手には放生池、左手には本堂があらわれる。 本堂には8躰の仏像が安置されており、本尊の阿弥陀三尊は重要文化財に指定された仁平元年(1151)の作。平安時代藤原期の作で、鎌倉時代に慶派が流行させた玉眼の技法を用いた日本最古の仏像でもある。 |
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長岳寺 本堂 | |||
頬や胸元の張りのある表情や彫りの深い衣紋はそれまでの平安仏とは異なり、次の鎌倉時代への先駆的作風となっている。 脇侍の観音・勢至菩薩は半跏踏下の姿。こちらも写実的で非常に美しい姿をされている。 |
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長岳寺 弥勒大石棺仏 | |||
境内には鎌倉時代の石棺仏があり古墳の石材を利用したものらしい。 |
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長岳寺 石仏 | |||
他にも鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏も多く、境内を廻ればその多さが分かる。 |
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長岳寺 四国八十八ヶ所へんろ道 | |||
また、大門から真っ直ぐ鐘楼門に行く道もあるが、大門を通り直ぐ左へ曲がると「長岳寺へんろ道」 という四国八十八ヶ所の石仏を並べた山道もある。境内をぐるりと一周する山道であるが、なかなかの勾配だった。 長岳寺HP:ナシ 所在地:奈良県天理市柳本町508 JR桜井線「柳本」駅下車、東へ徒歩20分(タクシーで5分) 拝観時間:10:00~17:00 拝観料:300円 その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>
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参拝日:2011/08/16 |
2011年8月17日水曜日
圓福院(五百羅漢堂) 鉄筋コンクリートと十一面観音【滋賀】
滋賀 圓福院
滋賀 圓福院 圓福院は滋賀県大津市の西、富士見台という琵琶湖を一望できる高台を登りきった頂上にひっそりと佇む天台宗の寺院。この日はあいにく雨が降り続き遠方まで見渡すことは出来なかったが晴れた日には遠くの三上山も望めるという。 富士見という地名はこの三上山、通称「近江富士」を望めることからついたのかもしれない。 それともはるか東の富士山を拝み見ることが出来たのだろうか。 |
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圓福院 | |||
車がすれ違うのも不可能なくらい細い道を登った先にある圓福院は地元の人から五百羅漢堂の名で呼ばれている。 創立開山ともに不明であるが、元禄12年(1699)僧空性により中興され延暦寺に属し光輝山と号した。 その時はまだ浜の方にあり、現在のこの富士見台へと移ったのは昭和35年夏のことである。 元の本尊は十一面観音で、現在は快慶作の釈迦如来坐像。本尊は建久8年(1197)10月の作で拝観には事前予約が必要だ。 圓福院に着くと、草が生い茂っており奥の庫裏へ行くと坊守の方にお堂を開けていただいた。 |
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圓福院 本堂 | |||
鉄筋コンクリート製の堂内には左右に羅漢が階段状にずらりと並ぶ。これだけ揃うとその像一躰一躰のもつ力強さを感じる。これは畏れという感情だろう。一躰だけでは出せない特別な何かがそこにあった。何かを必死に訴えかけているような空気感である。 |
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圓福院 五百羅漢 | |||
このずらりと並んだ五百羅漢は、室町時代の作もあれば昭和に入って造像されたものもある。 異なった時代の羅漢が集まっているのはその昔、明治時代に台風による影響でお堂が倒壊したときに五百羅漢も幾つか損傷したのだという。 昭和に入ると、檀家を持たない先々代の住職が宗務庁勤務の合間に一口五銭の月掛けで近隣を訪問し7年余りの浄財を受けて、壊れた仏像の修復また新しく造像をし今日に至っている。 檀家を持たない為にこのような地道な苦労を重ねてこられたのだが、壇の前の方に並ぶ彩色のよい像がその時代のものであろう。当時の住職の苦労が想像できる。 実際に何体あるのか数えたことはないらしいが、500躰を超えているのではないかとおっしゃっていた。 |
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圓福院 本尊釈迦如来坐像 | |||
本尊の快慶作の釈迦如来坐像は大津市の正法寺というお寺にあったものが寛正5年(1793)に還移したもので、像の高さは56.3cm(光背含まず)と小振りながらも衣紋の流れは刻みよく力のある目元をしている。普段はこの圓福院を訪れても厨子の扉が閉まったままであるが、事前に予約をすれば拝見させていただける。 膝裏に建久8年(1197)の銘と安阿弥陀という墨書があり快慶初期の造像であることがわかっている。安阿弥様といわれる優雅な表現は現れず引き締まった表情が全身の力強さを表している。 |
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圓福院 聖天堂 | |||
五百羅漢堂の参拝を終え、気になったことがあり坊守の方に訪ねてみた。 「元本尊の十一面観音様はどこにいらっしゃるのですか?」と。 すると、このお堂の隣にある聖天堂に聖天様と一緒に安置しているとのことだった。 隣の聖天堂の拝見をお願いすると快諾下さり、表の脇の扉からお堂の内陣へと入れていただいた。 |
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圓福院 元本尊十一面観音立像 | |||
予期せぬ出会いでこれほどの衝撃を受けることはなかなか無い。 この時の驚きは今でも鮮明に覚えている。小さな聖天堂の脇に設置された、冷たい鉄製ドアを引くと、目の前に飛び込んできたのは90cmほどの柔らかな顔立ちをされ黒く全身を染められたそれはそれは美しい観音様だった。 |
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圓福院 元本尊十一面観音立像 | |||
圓福院 元本尊十一面観音立像 | |||
頭上に化仏を抱き、頂上仏は外れていた。衣紋のひだは動的で今にも歩き出しそうな雰囲気を持つ。 前垂れは風が下から吹き上げる様子を表しており、この像容から南北朝から江戸にかけての作であろうと思う。お顔は南北朝の頂上で衣紋は鎌倉にも思えるのだが、中興が元禄年間ということから南北朝から江戸時代にこの像が造像され、この寺院のご本尊だったのではないか。 文化財指定などはされていないのは、恐らくこのようにお堂の脇にひっそりと安置されているからに 違いない。すべての文化財を調査できないほどこの地域には文化財が多いというのが一番の理由だろう。時代が若いために指定をけていないというのもあるであろうが、何よりも滋賀という地が文化財の宝庫であることを肌で感じることが出来た。 本尊の快慶作釈迦如来像だけでなく、ぜひこの元本尊の十一面観音さまも合わせて拝見してほしい。 偶然の出会いが思いもよらない美仏との対面となった。 圓福院HP:ナシ 所在地:滋賀県大津市富士見台35-18 JR「石山」駅よりタクシーで約10分 バスの場合、石山駅より国道経由浜大津行き「滋賀病院」バス停下車徒歩5分 拝観時間:--(要予約) 拝観料:志納 その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>
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参拝日:2011/07/07 |
2011年8月13日土曜日
岐阜市歴史博物館特別展 国宝 薬師寺展 【岐阜】
岐阜市歴史博物館 「国宝 薬師寺展」
岐阜市歴史博物館で10月2日まで開催されている「国宝 薬師寺展」へ行ってきました。 |
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岐阜市歴史博物館 パンフレット | |||
今回の特別展は平成23年7月に岐阜新聞が創刊130年となる記念事業として開催されており、 岐阜市内でこれだけ大規模な企画展が開催されることは非常に珍しい。 岐阜県と奈良の薬師寺というと、なかなか結びつかない気がするが、 薬師寺を発願したのが天武天皇(大海人皇子)で、皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈ってのことであった。 |
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岐阜市歴史博物館 | |||
その天武天皇が天武天皇として統治するまでの歴史を紹介すると、 天武天皇の一代前はその兄である天智天皇で、その時は日嗣の皇子で大海人皇子と呼ばれていた。 もともと天武天皇は自分の次には弟である大海人皇子に天皇の位を譲るつもりでいたが、 天智天皇の晩年に息子である大友皇子が生まれると、やはり親の性なのであろう。 自分の息子に天皇になって欲しいという気持ちが出てきてしまう。 それを察知した大海人皇子は、潔く身を引き出家をし、妃の鸕野讚良皇女と僅かな従者を連れ吉野の地へと隠棲された。 しかし、天智10年(671)12月3日、天智天皇が崩御するとその翌年、吉野に隠遁していた大海人皇子を敵視した大友皇子は大海人皇子の住まう吉野を封鎖しようとした。今で言う必要ないじめがあったのである。そこで大海人皇子はこの大友皇子の行為に、このままおめおめと死を待つことは出来ぬと672年に連れ立った従者たちと共に大友皇子と戦う覚悟をした。 そして、吉野から三重、岐阜と反時計回りに移動するように今の岐阜県不破郡関ヶ原のあたりで大友皇子と一戦を交えた。 これが世に言う「壬申の乱」である。 この壬申の乱では多くの美濃の地方豪族や武士が、大海人皇子の見方をし、 特に美濃出身の3人の舎人、村国男依(むらくにのおより)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)・身毛君広(むげつのきみひろ)には四季を任せたのである。 彼ら三人を呼び寄せた大海人皇子は、私領である湯沐邑(ゆのむら)に派遣して、不破道を塞ぐように命じ、不破郡に行宮を設けた。 村国連男依ら三人衆の活躍はめざましく、わずか一ヶ月あまりで勝利をおさめ、672年7月22日には大友皇子の自刃という形でこの戦乱は終結した。 その翌年に大海人皇子は飛鳥浄御原宮にて即位され、天武天皇となられるのである。 その後、美濃地方では、これからの功績をたたえてのことであろう、 壬申の乱の前後に数多くの寺院が建立された。 簡単に述べたがこれが、大海人皇子が天武天皇となる歴史で、 また岐阜と飛鳥薬師寺とのつながりとなるのである。 |
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岐阜市歴史博物館 | |||
なにより、今回の薬師寺展は現在の薬師寺管主である山田法胤氏が岐阜県根尾の生まれ、安田暎胤長老も岐阜出身、村上太胤執事長も各務原の出身と、 今の薬師寺のトップ3が美濃の3人衆が活躍されているということもあり、 1300年前の壬申の乱に活躍した3人衆と重なるこの縁で、今回の展示会が実現された。 実際に会場に入ると国立博物館のように大きな面積ではないので、30分ほどあれば見てまわることが出来る。 |
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岐阜市歴史博物館 | |||
その中でも、今回の目玉の一つは「麻布着色吉祥天女(きちじょうてんにょ)像」で、普段は薬師寺にて毎年1月1日から1月15日までの期間拝見することが出来るが、金堂で拝見するため距離5メートルほどの所から幅31.7cm高さ53cmの麻布に描かれた姿を拝見するため細部まではよくわからない。 しかし、今回の展示ではガラスケースの中に収められており1メートルもない近い距離で実物を拝見することが出来る。この機会があるだけでも、薬師寺展に行く価値はあるだろう。 麻布に描かれた奈良時代の絵画は、色彩もしっかりと残っており日本の絵画資料としても貴重なものである。ぜひこの機会に拝見してもらいたい一点です。 |
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薬師寺展 図録 | |||
他にも仏像では、休ヶ岡八幡宮の三神坐像(平安時代)、修理が終わり今回薬師寺よりも先にお目見えとなった四天王像(平安時代)、展示の最後には東院堂の本尊である聖観音立像(白凰~奈良時代)が並ぶ。 岐阜市歴史博物館HPに展示の仏像が掲載されています>> 会場奥の物販のコーナーも書籍や御写経勧進の用紙、図録など充実の品揃え。 今回の薬師寺展の図録では、薬師寺のお坊さんが2名来ており、図録に墨で言葉を書いていただける。 今回の薬師寺展は、この地域ではなかなか見ることのできない充実した展示内容となっていた。 また、この岐阜市歴史博物館の向かいには円空美術館、その並びには岐阜大仏で有名な正法寺もある。 岐阜城の散策にはまだまだ暑い日が続くが、この2箇所は簡単に歩いていくことができるので一緒に回ってみてはいかがだろうか。 岐阜市歴史博物館HP:http://www.rekihaku.gifu.gifu.jp 所在地:岐阜市大宮町2丁目18-1(岐阜公園内) 交通アクセス:岐阜市歴史博物館HPを参照 期間:平成23年7月29日(金)~10月2日(日) 開館時間:9:00~19:00(入館は18:30まで) ※ただし9月1、2、6~9、13~16、21、22日は9:00~17:00(入館は16:30まで) 休館日:毎週月曜日 観覧料(当日券):高校生以上 1000円(800円)、小・中学生 500円(300円) ( )内は20名以上の団体料金
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参拝日:2011/08/10 |
慈恩寺 脇手を頭上に伸ばす観音様のご開帳【岐阜】
岐阜 慈恩寺
8月10日朝。 この日は前日の夜10時過ぎから明けの1時まで三重県へ林光寺と子安観音寺のご開帳へと行き夜中に帰宅。 5時間くらいは寝ただろうか、それでも日頃の生活リズムや疲れもあり体が重たい。 テレビの天気予報では37度くらいまで気温が上がると言っている。しかし8月10日のご開帳はあと一カ所残っている為にのんびりもしていられない。 |
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岐阜市溝口 | |||
早速車を走らせ、午前中のみがご開帳という岐阜市慈恩寺へと向かった。慈恩寺は岐阜城の北を流れる長良川を8キロほど登った溝口という街にある。 長良川と小高い山に囲まれた土地で、夏らしい緑に染まった田園風景の中にある。かつては天台宗の寺院でいまは西山浄土宗の末寺である。 |
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慈恩寺 | |||
慈恩寺 | |||
慈恩寺 右が本堂左奥が観音堂 | |||
この慈恩寺は、1月1日~3日と8月9日、10日のどちらも午前中のみ収蔵庫が開扉される。 広い境内を進むと楼門があり、その正面に小さな観音堂があった。到着したときは11時を過ぎていたため、参拝客はみられず右手の本堂で数人の檀家信徒さんたちがテーブルや椅子などの片付けをされていた。 きっと、もう少し早い時間にはこの町の人達が集まり賑やかだったに違いない。 私が拝観している間にも、一人の女性が自分の畑でとれたものだろう、野菜を庫裏の方へ持って行き、何やらお寺の方と雑談をされていた。 こうした風景が今でも残っていることを大切にしなくてはならない。お寺とその町の人達が関係するからこそ、そのお寺は成り立ち、またこうしたご開帳という機会があるのだから。 |
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慈恩寺 本堂 | |||
観音堂はこの地域によくあるサイズの小ぶりな収蔵庫といった感じで、本尊の千手観音が一躰収まるほどの広さ。お堂の中に上がることはできないが、お堂の外からでも2メートルほどしか離れていない近い距離で観音様を拝むことが出来る。 |
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慈恩寺 本尊千手観音坐像 | |||
慈恩寺の秘仏千手観音坐像は平安期の作で、もともとこのお寺にあったわけではなく、もう少し長良川を登ったところにある津保という集落の満願寺に祀られたもので、その像と慈恩寺の阿弥陀像と交換することになり、現在の慈恩寺に安置されている。 慈恩寺の千手観音坐像は、平安時代藤原期の作で手前の4手は合掌手と宝鉢(ほうはつ)手となる。 すべての手に持物を持ち、特徴的なのは肩口からの二臂がスーッと宝髻(ほうけい)の頂上仏の上まで伸び小さな阿弥陀像を捧げ持った珍しい姿をしている。 これは京都の清水寺の秘仏千手観音と同じことからこのような姿を清水寺式という。国内でもこの姿を持つ仏像は非常に少なく、また坐像となるとかなり珍しい。 顔はつり目がちで、口元は堅く結んだ幼さを感じる顔立ち。女性らしさを感じたのは少しふっくらとした胸元が印象に残っているからかもしれない。光背は後補であるが放射状に小手が一面に彫られている。持物、蓮台も候補となる。 |
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慈恩寺 本尊千手観音坐像 | |||
一年のうちにわずか五日間。 しかも午前中のみとあって拝観する機会には、なかなか恵まれないがそれだけに今でも綺麗な姿を残しているのだろう。 前日の夜に林光寺をスタートした観音様の縁日に3ヵ寺を訪れることができた。 慈恩寺HP:ナシ 所在地:岐阜県岐阜市溝口中138-1 JR「岐阜」駅より岐阜バス13番乗り場で加野団地線三輪釈迦前行き、約45分で「福富口」バス停下車(560円)、そこから南進し「福富迎田」交差点を東進(左折)、「岐関大橋西」交差点を南進(右折)し数メートルで右手に慈恩寺。徒歩15分 拝観時間:ご開帳時は観音堂が午後12時まで開扉 拝観料:志納 その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>
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参拝日:2011/08/10 |
2011年8月11日木曜日
林光寺 真夜中に開く秘仏千手観音立像【三重】
三重 林光寺・子安観音寺
8月9日、今年の夏は暑い。 夜になったというのに、この日は気温が下がらず 四日市の工業地帯を走る路肩の温度計は29度を指していた。 お寺さんといえば朝から夕方までが一般の拝観時間であるが、 この日は、三重県の鈴鹿市まで夜間拝観へと出かけた。 8月10日は「四万六千日詣り」といい、この日に観音さまにお参りをすると 四万六千日間お詣りしたのと同じご利益があるとされている観音様の縁日である。 この日の目的は9日22時30分から10日深夜1時までご開帳されている林光寺と、 10日0時から1時までご開帳される子安観音寺の2ヵ寺を訪れた。 |
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林光寺 山門 | ||||
四日市インターで高速を降り、国道23号線を走ると林光寺はある。 近鉄の鈴鹿駅の近くで、昔からこの地に人が住んでいただろう静かな住宅街の 中にポツンと提灯を2つ灯していた。 |
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林光寺 境内 | ||||
山門から見える奥の本堂は辺りの夜の静けさとは反対に明るく煌々と照らされており、 檀家信徒さんであろう町の人達がすでに20人近く集まり中では法要が行われていた。 |
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林光寺 本堂 | ||||
お堂の中では般若心経などがテープでながされており、 一つの大きな数珠を10人ほどの人たちで回していた。 まだご開帳される雰囲気ではなかったため、 寺務所でくつろぐ世話方の方にお話を聞くと、今では 22時30分からの法要となっているが、昔は10日の深夜1時から4時の3時間だけの ご開帳だったのだという。 しかし、時代が進むにつれて、近隣の迷惑になるということから 9日の22時30分から10日の深夜1時までのご開帳に変更されたのだとか。 |
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林光寺 本堂 | ||||
22時30分から始まった法要は1時間ほど続き、時計の針も23時を回ると、 決して大きいとは言えない本堂は、外に人が溢れるくらい集まっていた。 靴の数だけでも35人。この町の人達には大切な観音さまの縁日なのだろう。 昔から続く四万六千日詣りは、こうしたその町の人達で守られているものでもある。 |
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林光寺 CATVも取材に来ている | ||||
【林光寺について】 多くの人で賑わいを見せるこの林光寺は鈴鹿市神戸町にあり、寺伝によると天平12年に聖武天皇勅願所として 行基菩薩が開創された真言の古刹で、正平年間(1346年~1369年)より神戸城主代々の祈願寺となり 繁栄した。 林光寺はこのように戦国時代の城下町として栄えた神戸の町にある。 本堂は桃山様式となり、外陣の格子天井には花鳥の絵、内陣の壁画には明王や天部の 壁画が残されている。 その林光寺のご本尊が、この日にご開帳される秘仏千手観音立像である。 |
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林光寺 法要風景 | ||||
2人の僧侶が真言を唱えながら引き続き法要が続けられている23時30分頃、 大きな鐘の音と共に内陣中央の厨子の扉が開いた。 そして、法要が終わり僧侶の方の説法が終わると、希望の方一人ずつが、 観音さまの手に繋がれた五色の紐を両手に包み、僧侶が手にする密教法具の剣を 体に当てられ、厄除開運をお祈りした。 |
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林光寺 本尊千手観音立像 | ||||
林光寺 本尊千手観音立像 | ||||
その後、本尊千手観音を外陣から拝見するも暗く斗帳はかかったままなので 厨子中の様子がよく分からない。 年に一度のご開帳のため、拝観目的の環境ではないので仕方ないが、目視では 目が慣れてもその姿を拝見することは不可能だった。 すると、この日のご開帳を取材に来ていた地元のCATVの方が撮影用にスポットライトを ご本尊の厨子に向かって当ててくれた。 すると姿が浮かび上がり、その厨子が京都の永観堂見返り阿弥陀さまの安置される厨子のように 金網が張られていることがわかった。目視でしっかりと姿が見えなかったのもこの為かもしれない。 写真に収めさせていただく事はできたが、それでも分かりづらいであろうから、 全体の像容は境内外の看板を一緒に載せることにする。 |
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林光寺 本尊千手観音立像(境内の看板を撮影) | ||||
本尊千手観音は平安時代藤原期の作で、国の重文指定。座高が108.1cm(光背まで入れると127cm)の桧の一木造。 全ての脇手には持物を持つ。 年に一度のご開帳ということもあり、保存状態は非常に良く、光背など後補の箇所はあるがそれは残念ということはなく(美術的に見る方は別だが)しっかりと修理も行き届き綺麗な姿を私たちの前に表してくれた。 その素朴ながらも丸い顔は護摩焚きのススで黒ずむこともなく離れた外陣からも木肌が美しく感じられた。 |
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子安観音寺 | ||||
じっくりと観音さまを拝見させていただくと時計は10日0時を過ぎていた。 この林光寺から伊勢湾に向かい車で15分ほどの所にある白子の子安観音も 「四万六千日詣り」をされており、本尊の白衣観音さまは、 10日深夜0時から1時までがご開帳である。急いで車を走らせた。 |
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子安観音寺 本堂 | ||||
境内に到着すると、こちらも沢山の人が集まっていた。 この深夜の時間帯にご開帳される寺院は鈴鹿市内では、この2ヵ寺であるが もしかすると、この地域には昔からもっと多くの寺院で四万六千日詣りがされていたのかもしれない。 |
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子安観音寺 | ||||
子安観音寺も林光寺と同じく真言の古寺で、本尊には白衣観音をおまつりし、 「白子の子安観音」の呼び名で親しまれる安産や子授けの信仰が篤いお寺である。 昭和の時代に新しくされたお堂には沢山の人が列をつくり、外陣でお寺の方から 塗香を頂き、体を清めてから3人1組で内陣奥の厨子に向かう。 そこで二人の僧侶と一緒に白衣観音のご真言 「オン シベイテイ シベイテイ ハンダラ バシニソワカ」と7回唱え拝見する。 こちらも林光寺と同じく厨子の中は暗く目視では像容を把握することは出来なかったが、 手前に御前立、その一段上がった奥に本尊白衣観音像が安置されている。 |
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子安観音寺 境内 | ||||
深夜1時を手前にして、8月10日年に一度だけの観音さまの縁日が一旦終わった。 しかし8月10日は始まったばかり。 一旦帰路につき、朝には岐阜へと向かうことにする。 林光寺HP:ナシ 所在地:三重県鈴鹿市神戸6丁目7-11 近鉄「鈴鹿」駅下車徒歩10分 拝観時間:ご開帳時は8月9日午後10時30分~8月10日午前1時まで 拝観料:志納 その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>
大きな地図で見る 子安観音寺HP:ナシ 所在地:三重県鈴鹿市寺家町3-2-12 近鉄名古屋線「鼓ヶ浦」駅下車 徒歩3分 拝観時間:ご開帳時は8月10日午前0時から午前1時まで 拝観料:志納
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参拝日:2011/08/09~10 |
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