2011年9月8日木曜日

寿宝寺 明かりに照らされた千手観音【京都】

京都 寿宝寺


京都南部の宇治市から車で南に30分ほど走ると京田辺市の寿宝寺に着く。 更にここから車で30分走れば奈良の東大寺となる。

以前から書籍などでしかその姿を拝むことの出来なかった千手観音立像が、 この寿宝寺に安置されている。今回は事前に拝観のお願いを申し入れ念願叶い拝見できることとなった。



寿宝寺
寿宝寺 山門

寺伝によると文武天皇の慶雲元年(704年)創建と伝えられている。 この地は東大寺方面から登れば奈良街道の最初の宿場町、京都伏見から下れば東大寺へ向かう最後の宿場町として 栄え、古くは七堂伽藍を備えてる大寺であった。今では往時を偲ぶものは残っていない。

ここの東を流れる木津川の度重なる氾濫により移転を繰り返し、この地に移ったのは享保十七年(1732年)のこと。



寿宝寺
寿宝寺 観音堂

明治初めの廃仏毀釈に際して近隣の寺々を合併し、現在の本尊である千手観音(国の重要文化財)や降三世明王、金剛夜叉明王が 観音堂に安置されている。

本堂の横に庫裏があり、寺庭さんに案内をしてもらった。
観音堂に入ると塗香を手に取り身を清め、お経を上げていただいた。


寿宝寺
寿宝寺 千手観音像

寿宝寺
寿宝寺 降三世明王

寿宝寺
寿宝寺 降三世明王

寿宝寺
寿宝寺 金剛夜叉明王


観音堂には正面に本尊千手観音、向かって左手に降三世明王、右手に金剛夜叉明王が安置されている。
この3躰の仏像はこの地から約1キロ南西にある式内社の佐牙神社の神宮寺に祀られていたもので神宮寺が明治初めに廃寺になった際、寿宝寺に移されたと伝えている。

千手観音は通常42本の手を持って千手と呼ぶ場合が多いが、実際に千本の手を持つ千手観音もいらっしゃる。 大阪の「葛井寺」、奈良の「唐招提寺」とともに、実際に千本の手を持つ千手観音として有名なのがこの寿宝寺の観音さま。その千手を広げた姿は力強く、口元は固く閉じた厳しいお顔をしていた。

千手は右に五百、左に五百を持っており、その手の平一つ一つに墨で眼が書かれている。

千手観音は長い間秘仏であったことと、素地ながら護摩供養をしていたため虫食いがなく状態が非常に良い。 平成9年に観音堂の新築と併せて三体の仏像が奈良の文化財修理所修理された。 その姿は口元に朱が残りこの朱だけは平安時代のままだという。

お寺の方に、この観音さまはその昔、藁葺屋根の本堂にお祀りされていて、その屋根から差し込む月明かりで拝むのが最も優しい姿なのだと話してくださった。そして、その雰囲気を感じてくださいということで収蔵庫の扉を閉め天井からの蛍光灯の明かりだけで照らされた姿が浮かび上がった。


寿宝寺
寿宝寺 千手観音像(扉を閉じた状態)

蛍光灯の青白い明かりは当時の月明かりと似ていたのかもしれない。扉を開けた状態で拝見したあの厳しく感じた表情から一変し、優しい表情に変わったのだ。衆中を救おうと広げる千本の手、瞳の大きさが分かるくらいに閉じられた眼、柔らかな状態の膨らみ。その畏れに身震いがした。

あまりの美しさに声も出せず固まってしまった私に、今度は明かりを消し外の光だけでその姿を拝見させていただいた。 蛍光灯が消され堂内が真っ暗になると、ゆっくりと扉を開けて太陽の光を堂内に入れた。


寿宝寺
寿宝寺 千手観音像(扉を開けた状態)


すると浮かび上がったのは、さっきとはまるで別人のような姿だった。檀像風のその顔は穏やかながら、口元の朱が際立ち目元は力強い。光の当たり方で観音さまから受け取る畏れが変わるというのは初めての体験であった。

どちらの姿も慈愛に満ちており、素敵な出会いをさせてもらった。


寿宝寺さんへ拝観の際は、事前予約が必要となる。
また、天候の悪いときは拝観予約をしても観音堂の扉を開けることはできないということで運も必要となってしまうが、この表情の対比を拝むことが出来る晴天にぜひ訪れて欲しい。

近隣には国宝の十一面観音(木心乾漆)を安置する観音寺も近いのでそちらと併せて拝見するのがいいだろう。




寿宝寺HP:ナシ
所在地:京都府京都府京田辺市三山木塔ノ島20

JR学研都市線・近鉄京都線「三山木」駅から徒歩5分    
拝観時間:要予約
拝観料:志納
その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>




寿宝寺周辺地図

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参拝日:2010/09/01





2011年9月2日金曜日

安倍文殊院 綺麗になった文殊館!平成23年卯年特別結縁拝観【奈良】

奈良 安倍文殊院


快慶作の高さ7mという日本最大の文殊菩薩で有名な安倍文殊院の歴史は古く、 寺伝では大化元年(645年)に阿部一族の本拠地であったこの寺院のある「阿部」の地に、 当時の左大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として「阿部寺」を ここから南西300mほど離れた地に建立したのが始まりである。


安倍文殊院
安倍文殊院 山門


その後平安時代に建てられた別所が現在の安倍文殊院で、 陰陽師として今でも有名な安倍晴明の没後、彼が「文殊菩薩の化身」であるという民間信仰が 広まったことから慶派の仏師快慶により文殊菩薩群像が作られた。


安倍文殊院
安倍文殊院


今年は平成23年3月に本堂の大改築が完成したのを祈念して特別結縁拝観が行われており、 本堂内陣奥まで行き拝見することができる。

本堂にはまるで神社のように思えてしまう合格祈願の絵馬などが掛けられており、 少し独特な空気が流れている。

お堂の荘厳さが損なわれてしまっているのはいささか残念である。


安倍文殊院
安倍文殊院 本堂

本堂で受付を済ませ、お抹茶をいただき早速、本尊が安置されている文殊館へと向かった。
三人寄れば文殊の知恵と言われるように、知恵を司るのが文殊菩薩で、 乗るのは百獣の王である獅子。
百獣の王をも制するということを表しています。


安倍文殊院
安倍文殊院本尊 文殊菩薩坐像(絵葉書より引用)


右足を左足の膝の上に乗せた半跏踏下坐(はんかふみさげざ)で、 右手の剣は煩悩を断ち切ることを意味し、左手に握る蓮華は煩悩を取り去った境地を表します。

つまり文殊菩薩は単なる知識を与えるだけではなく、 人間の煩悩から生じる悩みを取り去る知恵をも授けてくれる菩薩さまなのです。


その姿は獅子を併せて高さ7mという巨大なお姿。
よく目をこらせると宝冠の5つの化仏があり、文殊菩薩が敬愛に溢れることを意味している。また衣や唇には彩色が残っていることがわかる。

安倍文殊院
安倍文殊院 渡海文殊群像(絵葉書より引用)


改装前のお堂は背後まで木の板が張ってあり時代を感じさせる造りであったが、 今回の改装により背後が白い壁になりより一層、文殊菩薩の煌びやかな姿が際立つ造りとなった。

獅子に乗り4人の従者を従え人々を救いに行く渡海文殊の姿。 永禄六年(1563年)には兵火にあい群像の向かって左後の維摩居士と文殊菩薩の乗る獅子が消失して、 現在の二躰は安土桃山時代に新たに作られたものである。


安倍文殊院
安倍文殊院 望郷詩碑

平成22年に平城遷都1300年祭を記念し、遣唐使として渡唐した阿倍仲麻呂の詩が書家・榊莫山氏の揮毫により金閣浮見堂(仲麻呂堂)の前に建立された望郷詩碑。これは仲麻呂が唐から帰郷の折、中国蘇州の港にて詠まれたという詩。


「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」


安倍文殊院
安倍文殊院 閼伽井古墳(東古墳)


古来より枯れることなく湧き続ける飛鳥時代の閼伽井(あかい)古墳または東古墳ともいう。
この泉に湧水は「閼伽水(あかすい)」と呼ばれ「仏様にお供えするための清浄かつ神聖な水」という意味を持つ。 ここを参拝すると知恵が湧く事で古来から参拝者が訪れる。


この近くには国宝の十一面観音を安置する聖林寺や、車で20分も走れば明日香の岡寺、飛鳥寺などへも行動可能なので、 この安倍文殊院をスタートに奈良の仏像巡礼をするにはとても充実感のあるコースとなる。





安倍文殊院HP:http://www.abemonjuin.or.jp/new/index_m.htm
所在地:奈良県桜井市安倍645番地

近鉄「桜井」駅より徒歩で約20分、バスは桜井駅南口2番乗り場より「37石舞台」行き約7分。
時刻表はこちら>>
   
拝観時間:9:00~17:00
拝観料:700円(お抹茶付き)
その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>




安倍文殊院周辺地図

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参拝日:2011/08/31





2011年8月25日木曜日

千体仏地蔵堂 1008の木端仏に囲まれた円空仏【愛知】

愛知 千体仏地蔵堂


愛知県津島市。

愛知県と岐阜県の境である木曽川の東に位置し、「西の八坂神社、東の津島神社」と呼ばれた 牛頭天王信仰の総本社である津島神社の門前町として繁栄してきたこの街に、 江戸時代の行脚僧「円空(えんくう)」が彫った千体仏が安置されている。

津島市といえば津島神社が有名であるが、千体仏はこの津島神社に向かう途中のお堂に安置されている。


千体仏地蔵堂
全国津島神社の総本社「津島神社」

千体仏地蔵堂と呼ばれるこのお堂は、開扉期間の情報が不確かであったがようやく8月24日の地蔵盆に ご開帳されるということが分かった。


地蔵堂は、名鉄津島駅の前を通り津島神社の東の楼門に繋がる天王通りに面しており、 津島駅と津島神社とのほぼ中間地点に位置する。


千体仏地蔵堂
名鉄津島駅



千体仏地蔵堂
津島駅から天王通りを見る

天王通りとは昭和に入ってから整備された街道で、それまではこの辺りは狭い路地だったそうだ。


千体仏地蔵堂
常楽禅寺




千体仏地蔵堂
西方寺

津島駅から千体地蔵堂に向かうまでも常楽禅寺、西方寺の脇に地蔵堂があり綺麗に飾り付けられた様子をみると この地域の人々が地蔵盆を大切にしていることがよく分かる。



千体仏地蔵堂
千体仏地蔵堂

天王通りを津島神社の方へ歩いて行くと白いテントが見えた。

ここが千体地蔵堂である。
このテントさえなければ通り過ぎてしまうほどの、小さなお堂だった。

永代供養と記された灯篭と、小さなお堂がふたつ。 普段はガラス戸をしているようで、この日のために壇を設置するのだとか。



千体仏地蔵堂
千体仏地蔵堂

お堂の中には厨子が入っており、その厨子の中に高さ39cmの善財童子と護法神像、14cmの韋駄天像が 一躰ずつ安置され、中央に(といってもその厨子の中の空間の殆ど全てを)地蔵菩薩を中心とした千体仏が安置されている。


千体仏地蔵堂
千体仏地蔵堂(津島市デジタル博物館より引用)

中心の地蔵菩薩は高さ21cmで、その周りを5cm程の大きさの小仏千躰がまるで岩壁のように作られた 光背にぎっしりと並べ付けられている。

その小仏の圧倒的な量感は、まるで賽の河原へなだれ落ちて行く無数の命のようで恐ろしくもあるのだが、 中心の地蔵菩薩の微笑を見ているとその河原から救いだされたした命のようでもある。


地蔵菩薩の裾には、もともと六地蔵が付けられていたようであるがよく見ると今は8躰で後世に修復されていることが分かる。

というのも、先に書いた通りこの天王通りは昭和に入ってから整備された道で、 それまではこのお堂も路地の一角に建つごく普通のお堂で、近所の方も特に気にしていなかったのだと 世話人の方は言う。

それは私たちがもつ仏像に対するイメージと円空仏の像容とは異なっているからなのだろう。 この像が円空の作であるということすら知らずに昭和30年代までこのお堂に安置されていた。


しかし、安置と言っても今のような文化財としての姿ではなく、荒れた堂内で埃をかぶった悲惨な状態であった。
その後、この像が円空の作であるということが分かり修復に出すのだが、小仏を掃除をし接着剤で止めるという 修理の仕方で今では円空が付けた本来の位置に小仏はない。


千体仏地蔵堂
千体仏地蔵堂


それは小仏を一つ一つ見ても分かるのだが、右を向いたり左を向いたりとバラバラで統一感がない。
光背としての小仏であるなら放射状に付けられていたと考えることもできる。

その円空仏が入る厨子の隣には、これまた円空とは別の鉈彫の仏像が数体置かれている。
これは、円空仏を修復に出す際にその下から出てきた仏像らしく、これは開扉時期でなくとも ガラス越しに拝見することができる。 その像を円空仏と勘違いし紹介するHPなどもあるようだが、これは円空とは全く関係がない。


地蔵盆の一日だけということもあり、私がお堂にいたその間も町の人がお供え物や奉納金を持ってきたりと 観光寺院にはない、ゆったりとした時間が流れていた。
その人達はみんな円空仏のような優しい笑顔であった。



千体仏地蔵堂
津島神社参宮道


世話方の方にこの町の話を聞き、天王通りの南側が津島神社に続く本来の参宮道であるということを教えてもらい、 津島神社までの街道を歩いた。


円空の千体仏がこのような姿で残っているのは日本でもここだけであるので、 是非一度は拝見していただきたい。

尚、8月23日・24日を地蔵盆として開扉されていた千体仏地蔵堂であるが、 近年は高齢化も進み8月24日だけを地蔵盆のご開帳とされている。 あと一日だけ現在は開扉されるのであるが、それはこの先の天王川公園の藤まつりが 開催される期間の一日で通常はGWの天気の良い、一日のみお堂を開けて円空さんを 拝んでいただくことができるのだという。

GWのご開帳に関しては津島市役所産業振興課に事前に確認すると教えていただけるらしい。





千体仏地蔵堂HP:ナシ
所在地:愛知県津島市天王通り3丁目

名鉄「名古屋」駅から名鉄津島線で約22分「津島」駅下車、徒歩10分
   
拝観時間:ご開帳時は10:00~16:00
拝観料:志納
その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>




千体仏地蔵堂周辺地図

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参拝日:2011/08/24





2011年8月18日木曜日

長岳寺 山の辺の道にのこる古刹【奈良】

奈良 長岳寺


奈良には日本最古の道と言われている「山の辺の道」がある。

その山の辺の道に天長元年(824)に淳和天皇の勅願により弘法大師が日本神社の神宮寺として 創建されたと伝えられる古刹が長岳寺で、奈良市内から車で30分ほどで到着する。



長岳寺
長岳寺 国道169号を東に入ると山の辺の道へ

釜口大師の名で知られるこの寺は、鎌倉時代末より興福寺の末寺となり、その後、応仁の乱で主要な堂宇を失うも寛永7年(1630)に再興され今に至る。



長岳寺
長岳寺 全景

長岳寺は関西花の寺霊場の第19番札所にもなっており、12,000坪という広大な境内には春は桜、秋には紅葉が時に有名で、観光スポットにもなっている。

12,000坪と聞くと広大であるがそのほとんどが山に囲まれているため駆け足で巡れば20分ほどで境内を散策できる。


長岳寺
長岳寺 根上りの松

山の辺の道は今ではのどかな奈良の風景を見せてくれる田舎道であるが、 8世紀の初めには官道として出来ており、今で言う国道のような役割を持っていたのだろう。
その道沿いに位置する長岳寺には文化財も多く重要文化財には仏像5躰、建造物4棟が指定されている。
山の辺の道を歩くと大きな松の木が参道を影に隠していた。


長岳寺
長岳寺




長岳寺
長岳寺 大門





長岳寺
長岳寺 鐘楼門

根上りの松と呼ばれる大きな松の木を少し登ると大門があり、 受付の先には平安時代に創建された日本最古の鐘楼門がある。 現在はその上層に鐘は吊っていないが、遺構が残っている。



長岳寺
長岳寺 旧地蔵院




長岳寺
旧地蔵院庭園

そこを抜けると本堂となるのだが、この鐘楼門をくぐる手前、 受付の裏手が庫裏を兼ねた旧地蔵院で、ここに普賢延命菩薩を本尊とする 二間四面の小さな旧地蔵院本堂がある。その横に広がる庭園も美しい。 書院造りの上品な風景を遺している。


長岳寺
旧地蔵院 奥が本堂

こちらの普賢延命菩薩は大和十三佛第四番霊場となっている。
また旧地蔵堂では三輪そうめんをいただくことができる。しかし、閉門1時間前だとすでに終了していたりするので注意。山の辺の道を散策しながらお昼時に長岳寺へ入り、そうめんを頂くという散策コースもいいかもしれない。


長岳寺
長岳寺 本堂と放生池

鐘楼門をくぐると右手には放生池、左手には本堂があらわれる。 本堂には8躰の仏像が安置されており、本尊の阿弥陀三尊は重要文化財に指定された仁平元年(1151)の作。平安時代藤原期の作で、鎌倉時代に慶派が流行させた玉眼の技法を用いた日本最古の仏像でもある。



長岳寺
長岳寺 本堂

頬や胸元の張りのある表情や彫りの深い衣紋はそれまでの平安仏とは異なり、次の鎌倉時代への先駆的作風となっている。 脇侍の観音・勢至菩薩は半跏踏下の姿。こちらも写実的で非常に美しい姿をされている。



長岳寺
長岳寺 弥勒大石棺仏

境内には鎌倉時代の石棺仏があり古墳の石材を利用したものらしい。


長岳寺
長岳寺 石仏

他にも鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏も多く、境内を廻ればその多さが分かる。


長岳寺
長岳寺 四国八十八ヶ所へんろ道

また、大門から真っ直ぐ鐘楼門に行く道もあるが、大門を通り直ぐ左へ曲がると「長岳寺へんろ道」 という四国八十八ヶ所の石仏を並べた山道もある。境内をぐるりと一周する山道であるが、なかなかの勾配だった。





長岳寺HP:ナシ
所在地:奈良県天理市柳本町508

JR桜井線「柳本」駅下車、東へ徒歩20分(タクシーで5分)
   
拝観時間:10:00~17:00
拝観料:300円
その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>




長岳寺周辺地図

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参拝日:2011/08/16





2011年8月17日水曜日

圓福院(五百羅漢堂) 鉄筋コンクリートと十一面観音【滋賀】

滋賀 圓福院


滋賀 圓福院 圓福院は滋賀県大津市の西、富士見台という琵琶湖を一望できる高台を登りきった頂上にひっそりと佇む天台宗の寺院。この日はあいにく雨が降り続き遠方まで見渡すことは出来なかったが晴れた日には遠くの三上山も望めるという。

富士見という地名はこの三上山、通称「近江富士」を望めることからついたのかもしれない。
それともはるか東の富士山を拝み見ることが出来たのだろうか。



圓福院
圓福院

車がすれ違うのも不可能なくらい細い道を登った先にある圓福院は地元の人から五百羅漢堂の名で呼ばれている。 創立開山ともに不明であるが、元禄12年(1699)僧空性により中興され延暦寺に属し光輝山と号した。

その時はまだ浜の方にあり、現在のこの富士見台へと移ったのは昭和35年夏のことである。 元の本尊は十一面観音で、現在は快慶作の釈迦如来坐像。本尊は建久8年(1197)10月の作で拝観には事前予約が必要だ。

圓福院に着くと、草が生い茂っており奥の庫裏へ行くと坊守の方にお堂を開けていただいた。



圓福院
圓福院 本堂

鉄筋コンクリート製の堂内には左右に羅漢が階段状にずらりと並ぶ。これだけ揃うとその像一躰一躰のもつ力強さを感じる。これは畏れという感情だろう。一躰だけでは出せない特別な何かがそこにあった。何かを必死に訴えかけているような空気感である。



圓福院
圓福院 五百羅漢

このずらりと並んだ五百羅漢は、室町時代の作もあれば昭和に入って造像されたものもある。
異なった時代の羅漢が集まっているのはその昔、明治時代に台風による影響でお堂が倒壊したときに五百羅漢も幾つか損傷したのだという。 昭和に入ると、檀家を持たない先々代の住職が宗務庁勤務の合間に一口五銭の月掛けで近隣を訪問し7年余りの浄財を受けて、壊れた仏像の修復また新しく造像をし今日に至っている。

檀家を持たない為にこのような地道な苦労を重ねてこられたのだが、壇の前の方に並ぶ彩色のよい像がその時代のものであろう。当時の住職の苦労が想像できる。

実際に何体あるのか数えたことはないらしいが、500躰を超えているのではないかとおっしゃっていた。



圓福院
圓福院 本尊釈迦如来坐像

本尊の快慶作の釈迦如来坐像は大津市の正法寺というお寺にあったものが寛正5年(1793)に還移したもので、像の高さは56.3cm(光背含まず)と小振りながらも衣紋の流れは刻みよく力のある目元をしている。普段はこの圓福院を訪れても厨子の扉が閉まったままであるが、事前に予約をすれば拝見させていただける。

膝裏に建久8年(1197)の銘と安阿弥陀という墨書があり快慶初期の造像であることがわかっている。安阿弥様といわれる優雅な表現は現れず引き締まった表情が全身の力強さを表している。



圓福院
圓福院 聖天堂

五百羅漢堂の参拝を終え、気になったことがあり坊守の方に訪ねてみた。

「元本尊の十一面観音様はどこにいらっしゃるのですか?」と。

すると、このお堂の隣にある聖天堂に聖天様と一緒に安置しているとのことだった。
隣の聖天堂の拝見をお願いすると快諾下さり、表の脇の扉からお堂の内陣へと入れていただいた。



圓福院
圓福院 元本尊十一面観音立像

予期せぬ出会いでこれほどの衝撃を受けることはなかなか無い。
この時の驚きは今でも鮮明に覚えている。小さな聖天堂の脇に設置された、冷たい鉄製ドアを引くと、目の前に飛び込んできたのは90cmほどの柔らかな顔立ちをされ黒く全身を染められたそれはそれは美しい観音様だった。


圓福院
圓福院 元本尊十一面観音立像




圓福院
圓福院 元本尊十一面観音立像

頭上に化仏を抱き、頂上仏は外れていた。衣紋のひだは動的で今にも歩き出しそうな雰囲気を持つ。

前垂れは風が下から吹き上げる様子を表しており、この像容から南北朝から江戸にかけての作であろうと思う。お顔は南北朝の頂上で衣紋は鎌倉にも思えるのだが、中興が元禄年間ということから南北朝から江戸時代にこの像が造像され、この寺院のご本尊だったのではないか。

文化財指定などはされていないのは、恐らくこのようにお堂の脇にひっそりと安置されているからに 違いない。すべての文化財を調査できないほどこの地域には文化財が多いというのが一番の理由だろう。時代が若いために指定をけていないというのもあるであろうが、何よりも滋賀という地が文化財の宝庫であることを肌で感じることが出来た。

本尊の快慶作釈迦如来像だけでなく、ぜひこの元本尊の十一面観音さまも合わせて拝見してほしい。
偶然の出会いが思いもよらない美仏との対面となった。






圓福院HP:ナシ
所在地:滋賀県大津市富士見台35-18

JR「石山」駅よりタクシーで約10分
バスの場合、石山駅より国道経由浜大津行き「滋賀病院」バス停下車徒歩5分
   
拝観時間:--(要予約)
拝観料:志納
その他詳細情報は仏像ワンダーランドHPへ>>




圓福院周辺地図

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参拝日:2011/07/07





2011年8月13日土曜日

岐阜市歴史博物館特別展 国宝 薬師寺展 【岐阜】

岐阜市歴史博物館 「国宝 薬師寺展」


岐阜市歴史博物館で10月2日まで開催されている「国宝 薬師寺展」へ行ってきました。



岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館 パンフレット

今回の特別展は平成23年7月に岐阜新聞が創刊130年となる記念事業として開催されており、 岐阜市内でこれだけ大規模な企画展が開催されることは非常に珍しい。


岐阜県と奈良の薬師寺というと、なかなか結びつかない気がするが、 薬師寺を発願したのが天武天皇(大海人皇子)で、皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈ってのことであった。



岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館

その天武天皇が天武天皇として統治するまでの歴史を紹介すると、
天武天皇の一代前はその兄である天智天皇で、その時は日嗣の皇子で大海人皇子と呼ばれていた。 もともと天武天皇は自分の次には弟である大海人皇子に天皇の位を譲るつもりでいたが、 天智天皇の晩年に息子である大友皇子が生まれると、やはり親の性なのであろう。 自分の息子に天皇になって欲しいという気持ちが出てきてしまう。 それを察知した大海人皇子は、潔く身を引き出家をし、妃の鸕野讚良皇女と僅かな従者を連れ吉野の地へと隠棲された。



しかし、天智10年(671)12月3日、天智天皇が崩御するとその翌年、吉野に隠遁していた大海人皇子を敵視した大友皇子は大海人皇子の住まう吉野を封鎖しようとした。今で言う必要ないじめがあったのである。そこで大海人皇子はこの大友皇子の行為に、このままおめおめと死を待つことは出来ぬと672年に連れ立った従者たちと共に大友皇子と戦う覚悟をした。


そして、吉野から三重、岐阜と反時計回りに移動するように今の岐阜県不破郡関ヶ原のあたりで大友皇子と一戦を交えた。
これが世に言う「壬申の乱」である。


この壬申の乱では多くの美濃の地方豪族や武士が、大海人皇子の見方をし、 特に美濃出身の3人の舎人、村国男依(むらくにのおより)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)・身毛君広(むげつのきみひろ)には四季を任せたのである。


彼ら三人を呼び寄せた大海人皇子は、私領である湯沐邑(ゆのむら)に派遣して、不破道を塞ぐように命じ、不破郡に行宮を設けた。


村国連男依ら三人衆の活躍はめざましく、わずか一ヶ月あまりで勝利をおさめ、672年7月22日には大友皇子の自刃という形でこの戦乱は終結した。


その翌年に大海人皇子は飛鳥浄御原宮にて即位され、天武天皇となられるのである。

その後、美濃地方では、これからの功績をたたえてのことであろう、 壬申の乱の前後に数多くの寺院が建立された。


簡単に述べたがこれが、大海人皇子が天武天皇となる歴史で、 また岐阜と飛鳥薬師寺とのつながりとなるのである。



岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館

なにより、今回の薬師寺展は現在の薬師寺管主である山田法胤氏が岐阜県根尾の生まれ、安田暎胤長老も岐阜出身、村上太胤執事長も各務原の出身と、 今の薬師寺のトップ3が美濃の3人衆が活躍されているということもあり、 1300年前の壬申の乱に活躍した3人衆と重なるこの縁で、今回の展示会が実現された。


実際に会場に入ると国立博物館のように大きな面積ではないので、30分ほどあれば見てまわることが出来る。





岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館

その中でも、今回の目玉の一つは「麻布着色吉祥天女(きちじょうてんにょ)像」で、普段は薬師寺にて毎年1月1日から1月15日までの期間拝見することが出来るが、金堂で拝見するため距離5メートルほどの所から幅31.7cm高さ53cmの麻布に描かれた姿を拝見するため細部まではよくわからない。
しかし、今回の展示ではガラスケースの中に収められており1メートルもない近い距離で実物を拝見することが出来る。この機会があるだけでも、薬師寺展に行く価値はあるだろう。
麻布に描かれた奈良時代の絵画は、色彩もしっかりと残っており日本の絵画資料としても貴重なものである。ぜひこの機会に拝見してもらいたい一点です。



岐阜市歴史博物館
薬師寺展 図録

他にも仏像では、休ヶ岡八幡宮の三神坐像(平安時代)、修理が終わり今回薬師寺よりも先にお目見えとなった四天王像(平安時代)、展示の最後には東院堂の本尊である聖観音立像(白凰~奈良時代)が並ぶ。

岐阜市歴史博物館HPに展示の仏像が掲載されています>>

会場奥の物販のコーナーも書籍や御写経勧進の用紙、図録など充実の品揃え。

今回の薬師寺展の図録では、薬師寺のお坊さんが2名来ており、図録に墨で言葉を書いていただける。


今回の薬師寺展は、この地域ではなかなか見ることのできない充実した展示内容となっていた。

また、この岐阜市歴史博物館の向かいには円空美術館、その並びには岐阜大仏で有名な正法寺もある。 岐阜城の散策にはまだまだ暑い日が続くが、この2箇所は簡単に歩いていくことができるので一緒に回ってみてはいかがだろうか。






岐阜市歴史博物館HP:http://www.rekihaku.gifu.gifu.jp
所在地:岐阜市大宮町2丁目18-1(岐阜公園内)

交通アクセス:岐阜市歴史博物館HPを参照    
期間:平成23年7月29日(金)~10月2日(日) 開館時間:9:00~19:00(入館は18:30まで)
※ただし9月1、2、6~9、13~16、21、22日は9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:毎週月曜日
観覧料(当日券):高校生以上 1000円(800円)、小・中学生  500円(300円)
( )内は20名以上の団体料金




岐阜市歴史博物館周辺地図

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参拝日:2011/08/10